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巡見使の道
現在の駒止トンネルと旧駒止峠の間に存在する江戸時代からの道(地図参照)
古くは戦国末の天正18年(1590年)3月伊達正宗の先人をつとめる南山(田島)長沼盛秀と伊南久川城の大将 川原田大善盛勝が黒沢原で戦ったがこの戦いで盛勝の息子五郎丸が応援に駆けつけるため駒止峠にさしかかり、父の死を知らされ、嘆き悲しみ死を滑らせたところが「五郎ころばし」といわれる。江戸時代に入り、将軍交替の都度、政治方針を立てる民情視察のために、諸国巡見使が派遣されたが、天明8年の御料巡見使は、針生から小峠大峠の駒止嶺を越えて山口に着いている。明治初めより道路修繕が度々行われたが、明治20年になり、更に道路改良が行われ、旧駒止峠は荷馬車が通れるまでになった。明治後期の日露戦争と凶作により農村疲弊回復の時局匡救事業として明治40年駒止峠の車道が開鑿(かいさく)されて、その指名を終わった。
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