教育について、ふと思ったこと(2002/03/01) - ひとり言
●いじめや不登校など、様々な学校での問題が目立つようになると。それまでの学校だけの授業では、子供達に伝えられない何かがあるらしいことに気づく。すると国は「ゆとりの教育」を叫び、勉強以外のことで、何かを見つけられるのではないかと、学校を週5日制にした。すると今度は、親達の間から学力低下が心配されるという声が上がる。あわてて、文部科学省は家での宿題などで、自宅での学習を進める方針を発信する。 私立校はそのことで子供達の学力の低下につながるとのことで以前のままでいく方針を決める。あわてて国は、国が決めたことだから私立の学校もそうしてくれと頼む。 学力差でも生じてしまうのが心配なのだろうか。まるでお粗末なキャッチボールにしか見えない。
●土曜日も学校に行きたくてしかたがない子供もいるらしい。決して勉強がしたいわけじゃなく、友達と会えるからだという。その少年はこれからその土曜日をどう過ごせば良いのだろう。
国も学校も親達も、社会も、子供達の未来、人間の本当に大切なもを見ようとはしていない。 学校にいる時間が長ければ長いほど優秀な人間が育つのなら、休みなど作らないで一生勉強していれば良い。世の中の親達の中には、迷わず子供にそんな選択をさせようと人間もいるのだ。将来は総理大臣になろうとたくらんでいる人種なのだろう。
●人間の学力って学ぼうとする力のことを言っているんでしょう。学力って、覚えた知識の量の多さをさしているんじゃないでしょう。 探求心、知りたいと思う欲求、アフガニスタンやアフリカの学校の無い子供達のインタビューをニュースで聞くことがあった。なぜ勉強しているんですか?「私が学んだことを、あの子供達に今度は私が教えられれば良いと持っています」後ろで遊ぶ貧しい子供達を指差して彼女は答えた。 住んでる社会が違うといえばそれだけかも知れないが・・・・彼女の学びに対する考えと日本人のそれとの何と比較にならないことか・・純粋に学ぶということはシンプルであって、知りたい自分の体の中に(決して脳ではありません、つまり知識(脳)も知恵(モラル)も、体験(小脳)も含めて体全体)取込もうとする意欲のようなものである。ある人が「学校の授業とは先生の意図がそこには必要で、子供達に身につくためのプログラム、マニュアルが必要だ。教育の基本は読み書きだ」だそうだ。文字など無かった時代には人間はずーっと朝からおしゃべりしたに違いない。何千年も前ギリシャでは、500年くらい人間とは、宇宙とはと朝から晩までおしゃべりしていたに違いない。だから哲学なんかが進化してしまうのだ。なぜ文字ありき、「読み書き」なのか? 「読み書き」できぬ私の持論は「話す聞く」である。