今の日本の教育に大きな革命的な変化が起きない理由(2001/11/29) - ひとり言


今の日本の教育に大きな革命的な変化が起きない理由
「知識」の置く場所を「脳」と決めつけている人々の存在である。 「知識の量」イコール「偉い人」イコール「人生の勝利者」なのだという価値観を持った人間の存在である。世の中の偉い人々、社会を中心的に動かしている人々、つまり「有識者たち」がみなその価値観で育った勝利者たちだからである。 彼らは自分に染みついたその価値観の重力から脱出できずにいるのだ。自分たちが選択してきた価値観だから気づくことはできなかったし、生理的に気づきたくないのかもしれない。これが日本の教育に大きな革命的な変化が起きない理由である。 時代は変わったのだ、100年以上も前の江戸時代と同じ価値観で教育がなされているのだからおかしなものである。もう「未来」と呼ばれても良いころなのに、教育は相変わらず原始的なのだ。

●●今の教育に言いたいこと●●
ならば、学校や教育はどうあるべきなのでしょうか?私には提言があります。笑って聞いて下さい。
●知識の置き場所をみつけたのに・・・・こんなに便利なコンピューターという道具を手に入れたのに人間の脳への知識詰め込みの時代から、知識や情報の置き場所を人間の脳ではなくコンピューターや、電子ネットワーク(インターネット世界)の中に見つけたはずじゃありませんか。でも学校では、相変わらず知識を人間の脳ミソの中に置こうとしています。今は江戸時代でも、昭和でもありません。未来のはずです。 
●コンピューターが脳作業(人間の脳への知識詰め込み行動)から解放してくれる道具だとしたら
人間の知識詰め込みという脳作業の時代にさよならできる今なのに、人々はそのことに気づいていない。 知識を貯めておき、いつでも取り出したりするにはとても便利なコンピューターという道具の誕生です。そのコンピューターが人間の知識詰め込みの脳作業から解放してくれる道具なのだ。自動車の出現によって隣町の恋人に会うのに一日かかったのが30分も車で走れば会えるのだ。 10人で一週間かかった農作業がトラクターが3時間で終してしまう。 人間が作り上げた道具が、恋人への切ない思いを解消し、多くの肉体労働から人間を解放したのだ。もしコンピューターが人間の知識の置き場所としての脳の役割を解放することができるとしたら、その時こそ我々は自分の脳をもっと素敵な感性とか、芸術性、創造性や優しさ、人間の本質を育てることに使うことができるのではないだろうか? 自分の脳なのだから、自分の為に使おうよ!自分の脳なのに、他人の押しつけた情報の置き場所に使うのはやめましょう。 もし今の自分には要らないけれど、いつか役立つ時が来るような予感がする情報ならとりあえず、コンピューターにしまっておき、もしかして20年30年たったころ、ある歳になったとき、その情報が自分のために生き返るかもしれません。 
人は「知識の量」ではなく、その人の本質によって様々に輝ける時代がやってくるのだ。